郷に入っては郷に従え
この言葉に忠実に生きているような気がする。
私が今暮らしている町では、英語を話してくれる人がほとんどいない。それどころか、こちらが分かっていないのを気付いているのかいないのか、現地の言葉で捲し立てられる(笑)
かの有名なコーヒーチェーンのスターバックスですら「lemon tea」が通じなかった。
最初は簡単な英語くらい話してくれてもいいじゃないと苛立った自分もいたが、いやはや私はここでは新参者。言語の勉強を加速させるか。とギアの切り替え。最近は勉強のためだと、野菜を購入しに市場に言った際には積極的におばちゃまに話しかけにいってしまう。ほとんど聞き取れないが…
異文化への適応能力が比較的に高いのも、大学時代にヨーロッパで約1年間交換留学生として過ごした経験からな気がする。
個人的な意見であるが、旅行しかり、ビジネスや勉強等のための滞在しかり、他国を訪れる際には、それ相応の敬意やその文化を尊重する気持ちが必要だと思っている。ギアチェンジの早さはその信念に沿ったものではある。だからこそ、(一部ではあることは重々承知の上だが)日本への外国人旅行客のマナー違反には心が乾燥してしまい、誰か水をください状態である。
相手を知るには相手に従え?
これまで国と国の話をしてきたが、人間関係でも同じような気がする。
私は誰かと出会った際には、過度な身辺調査をしてしまう。その人が何が好きなのか、休日は何をして過ごすのか、好きな本は…。そして、次会った時にその話ができるように、私も同じような過ごし方をしたり本を読んでみる。
「相手に好かれたい」という気持ちが先走ってしまった結果、刑事のように相手を根掘り葉掘り取り調べてしまう。
更に、自分にとって大事にしたいと思う人がいれば、私の取り調べは力を増す。週末の予定を聞いて、週明けにはどうだったか、感想を尋ねる。客観的に見たらストーカー…?相手からしたら、いい迷惑なのかもしれない。
でもその積み重ねで、いろんな人と仲良くなれた。
いや、冷静に考えるとそれは表面的なものだったのかもしれない。相手との関係性に「適応した」だけだったのかもしれない。「相手を知るには相手に従え」と対等なはずの関係性が、いつの間にか相手が上の関係性になってしまっていたのかもしれない。そして、人の機嫌を伺ったり、人に合わせることばかりが得意になった。「どっちでもいいよ。」「どっちがいい?」そんな言葉が口癖になってしまった。
でもそれって自分では気付かないもので。
尊敬する女性の先輩のお家に遊びに行かせてもらった時のこと。遠慮の気持ちもあって、どっちでも大丈夫ですと伝えたら、(恐らく何度も言っていたんだと思う)彼女の旦那さんから「どっちでもいいは禁止。ちゃんと主張して」と言われた。びっくりしたのと同時になんだか嬉しかった。直接関わりのある先輩ではなく、そのパートナーが私をそして、私が肯定するものを受け入れようとしてくれている気がして。
そしてやっと気付いた。それが人間関係を根っこから構築していくことだと。相手の好きなものを好きになろうと頑張ること、間違いじゃないけど、いつの間にか「自分」が薄くなっていっていた。
今までいろんな人と出会って、関係を築いてきた。その関係性をより深くしていくためにも、自分の好きを見つけて、そして伝えて。好きを探す旅は自分のためだけではなくて、きっと、人間関係にも繋がっていくと思う。
Naru.
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